仕事が決まったこと言いましたっけ?

夜より暗い夜明けは過ぎ、外は朝霧に包まれ始めていた。

霧が太陽に照らされ、眩しい光の乱反射で一寸先も見えない。それでもやみくも歩くと、何かにぶつかったようだった。どうやらバスの停留所らしい。ふと遠くに目をやると、二つのライトが霧を切り裂くように向かってくるのが見えた。

 

端的にいうと、4月からの仕事が決まったのだった。

 

アルバイトで応募したところが非常勤職員の募集もしており、面接時に資格とキャリアプランの話をしたことがきっかけで非常勤職員の職を与えてくれたのだ。アルバイトのつもりが非常勤ながら職を得てしまった。驚きだ。

 

チャンスとはバスのようなものだという。待っていれば必ず来る、来たら乗るしかない。乗る準備が出来ていればさえすれば。これはきっとそのバスだ。私にもバスが来たようだった。

 

働かずに生きて2ヶ月13日、こうして私は突如現れたバスに乗りこむこととなった。レールはもう遠に過ぎ、2ヶ月歩いてきた場所は私の足跡だけが付いている。2ヶ月、長いようで短かった。会社を辞め、新しい仕事にチャレンジし、失敗したこと。寝て、起きて、食事をしたこと。たくさんの場所に出かけ、たくさんの人と会い、失った「私」を掻き集めたこと。旅行に飲み会、遊びに遊んで人生の豊かさを感じたこと。友人に家族、恋人がいる素晴らしさに泣いたこと。黄金の午後を過ごしたこと。夜明けの暗さに身を震わせたこと。

 

バスの降車ボタンを押す。2ヶ月、2ヶ月の日々は毎日がYESだった。いろんなことがあった。不眠症にもなったし、情緒も不安定だ。それでもYESだった。失った「私」を両手いっぱいに掻き集め進んだのだ。歩き、走り、倒れ、転ぶ。それでも私は「私」を集められた。もう次に進むハートも、傷つく勇気も、少しだけれどあるはずだ。YES、YESだ!

 

バスを降りると2ヶ月歩いてきた場所より更に歩きにくい土地が待っていた。霧で相変わらず一寸先は見えず、一歩進むたびにどっと疲れる。それでも朝の強い太陽光が背中で感じられた。朝はシリアスな現実と人生の憂鬱さで満ちている。そして光と希望も満ちていた。

次に進むため、私は「私」を抱えながら

一歩を踏み出したのだった。

 

……………………………………

一括りがついたので、感謝を伝えたい。

このブログを読んでいると伝えてくれる方がいたことは本当に嬉しかった。自己満足と悲劇のヒロインぶった阿保、醜い装飾がついた読みにくい文章によって形つくられたブログだと言うのに読んでいる方がいるとは!さらにブログを読んでメッセージをくれる方まで現れた!ありがたいことである。

今後もブログは続けるつもりだ。自己満足と悲劇のヒロイン、デコラティブな文章はやめれないのだが(すごく楽しいからだ)とにかく、この2ヶ月ブログを読み、さらにメッセージをくれた方々に感謝を!

 本当にありがとうございました。 佐々木

 

北海道の日々2

3月3日、私は睡魔と共に成田にいた。前日の深夜、旅行の楽しみである化粧道具の小分けに励みすぎたからだ。(女は小分けという言葉に目がない生き物だ。さらに小瓶となれば祭気分になり、小瓶に液体を詰み変えることはいわば正月&盆騒ぎである)眠気と戦いながらやっとの思いで搭乗券を発行し、眠気覚ましに手を2回ほど洗うと、保安検査を通る時間となった。私は保安検査をいかにスマートなスタイルで通過するかに命をかける戦士である。この日もいつも通り、コートを早々に脱ぎ、搭乗券片手に万全なスタイルで臨んだ。吸い込まれる荷物を確認、未だ謎なゲートを通りいざ荷物を!と思ったところで声をかけられた。「すみません、こちらはナイフでしょうか?」

 ナイフ…ナイフだ。はっと見ると鍵と一緒にサバイバルナイフが付いている。いや、これは、確かに、ナイフだな…このナイフは恋人から贈られたもので、ナイフハサミヤスリ何でも多目的サバイバルグッズである。コンクリートジャングルを生きるサバイバーには必要不可欠、航空会社に勤める社員から見れば危険物に間違いなかった。まさか保安検査で引っかかるとは、敗戦である。負け犬と化した私は「えっ?あの人…」という目で見られながら荷物カウンターまで爆走することとなった。めっちゃ恥ずかしい。

 手荷物ではダメだが、預け荷物なら大丈夫とのことなので持ち込もうとしていた1.5リットルリュックに詰め直した。荷物も預けたし、これでまたスマートに保安検査を通れる、などと思っていたがまた呼びかけられた!気持ちはもうテロリスト、危険人物である。裏に呼ばれ、恐る恐る話を聞くとなんとリュックにライターが入っているという!ライター⁈流石の私もライターが預け荷物禁止なのは重々承知、なんなら記憶にない。

「すみませんね、丁寧なことにここら辺にライターが入っているとメモを職員から受け取りました。分かりますか?」塾講師のような見た目の職員にメモを渡され、眉間に5億ほど皺を寄せて見ると確かにリュックのイラスト上部にライターらしきマークがされていた。「いやーライターなんて入れた記憶が」などと阿保のようなフラグを立てながら荷物に手を突っ込む。そういえば、家出る直前に北海道の気温がマイナス2度と知り、「ジャンバーがたんねぇよお嬢さん‼︎!!!」と叫びながらジャンバーを入れた。アレだ。記憶はまやかし、しかし時に真実である。ジャンバーのポッケをみるとやはりライターがお淑やかに収まっていた。「女性はメイクでライターを利用されるので、うっかり入るものなんですよ〜」と河合塾講師めいた職員は優しくフォローしてくれる。彼の眼鏡奥の瞳はDon't worry…と語りかけていた。世界は私をテロリストとは思っていない、ただの飛行機慣れしてない若い娘と認識してくれている。優しい世界だ。「いや、破棄していただいて結構です。」

 

すっかり眠たさも消えた私は、睡魔と100円ライターに別れを告げ、札幌へと飛び立った。

北海道の日々

2月27日、私は食後の電気ブランを舐めていた。彼の太宰治が『人間失格』で「酔いの早く発するのは、電気ブランの右に出るものはない」と書いた通り、悪酔に向いている名酒である。40度の黄金色は、現実から飛び立つエンジンそのものだ。飽きもせず舐め続けていると、ふと我が使命が浮かんだ。そうだ、俺は旅に出なければならない!電気ブランの瓶が「そうだ、ここを出ろ」と叫んでいる!

横で金麦を飲んでいた母に私は「旅行に行きます」と伝えると、母は新しい金麦を開けながら「それなら北海道は?」と言った。母の素晴らしい点は、とにかく話が早いところである。無収入の娘がへべれけになりながら阿保を言っても、彼女は「確かにそうだ」と言わんばかりに賛成してくれるのだ。本当は「死ぬまでに行きたいリスト」のNo.2神戸を思い浮かべていたのだが、確かに北海道は名案だ。北海道は父が単身赴任している場所なのだが、彼は4月には東京に戻る予定になっていた。2015年も北海道に行ったのだが、単身赴任のアパートに泊まったので宿代がかからない。宿代もかけず、安く行けるのは今しかない。なるほど名案である。

話をして10分後にはPCを開き、60分後には全ての日程表と運賃を調べ、宿先の父に承諾を得ていた。私は自身がアクティブ検定2級保持者の自信があるのだが、流石にこの素早さには己ながらビビる。悪く言えば馬鹿である。

翌日28日にはチケットを支払い、急遽北海道へと行くこととなった。恋人は「随分急だね」と驚きのLINEをくれた。そうだ、電気ブランがまさか飛行機のエンジンにもなるとは私も思いもよらなかった!

 

こうして私は3月3日から7日までの4泊5日、北海道旅行へと旅立ったのだった。

2か月の日々

働かずに生きてもう2か月も経ってしまった。

2か月、1年の6分の一を無職で過ごしたということだ。

 

周りの人から「ブログを更新しないのか」と聞かれるたびに「いやぁ、面白いことなんざ何一つ起きてやしねぇんで」などと江戸っ子らしく返事をしていた。たしかに面白いことなんざ一つも起きてやしなかったがただ一つ、悲しい話はあった。

2016年の10月末ごろ、私は恋人と一緒に恩師と食事をしていた。仕事を辞めることを真剣に検討していた頃で、私は大学内の仕事を視野に入れていた。教育関係の仕事に就く夢がある私は、少しでも教育的場面に立ち会える仕事をしたいと考えていたのだ。大学内の人事に詳しい恩師と会い、いま仕事があるかどうかを聞く必要があった。

イタリアン料理を囲いながら、恩師は大学の助手・副手の仕事に応募しろと話した。助手・副手はいわばアシスタントと事務を兼ね備えた仕事である。確かに、生徒と先生の架け橋になる仕事は理想的かもしれない。いや、そもそも夏頃からよく恋人と「もう仕事やめて副手になる」などと戯れこんでいたのだ。

11月に入ると、連絡先を知っていた学部長と約束を取り付けることができた。多忙ゆえ、私との約束を忘れなぜか池袋にいた先生を追い「なにか仕事はありませんか?」とと問いかけた。そしてやはり恩師と同様に助手副手の仕事を進めてくださったのだ。

助手と副手の仕事に応募してみようと決意すると同時に、偉い人への根回しをした私は履歴書を出した。1月頭の話だ。それから書類試験、筆記試験へと進んだ。

なぜか書類試験、筆記試験の合否の際、毎回大学にいた私はいろんな人と一緒に一喜一憂した。書類試験の連絡に不備があり、通達が1日ずれた際には「もう落ちた、まさか書類で落ちるとは」と大いに泣いたりした。はるばる遠くから恋人が最寄駅に駆けつけ、私を慰めるはめとなったりした(彼は可哀そうなことにこの後も節目節目で私を慰めなければならなかった)最終面接までいき、周りの人たちから「最終まで行けばもう受かるだろう」「佐々木が面接で落ちるわけがない」などと励まし、むしろもう働くのだと考えている人などもいた。そうした期待を背負って、夢と希望を胸に最終面接を受け、落ちてしまったのだ。2月15日の話である。

これには大層ショックだった。なんせ10月から準備しはじめ4か月もかけてきた。加えて多くの人が励ましてくれたりしたのに、私の力不足で残念な結果となったのだ。仕事を辞めた直後からずっとこのことばかり考えていた私は、落ちてから急激に憂鬱となってしまったのだった。そもそも、仕事を辞めたばかりの頃は身体をアドレナリンで動かしているような状況だった。前向きにならねば、今の状況を楽しまなければ、大丈夫、きっと仕事は見つかる。しかし、落ちたことですっかりアドレナリンが消えてしまった。いや、わかる。たった一つの仕事が落ちたぐらいで何を言っている?舐めているのか?といったお言葉はよくわかる。わかるのだが、どうもだめだった。傷つくのに疲れてしまった私には、とんでもない打撃だったのだ。こうして私は2月15日を境に、典型的な不眠症と無気力に陥ったのだった。悲しい話である。

この話をブログに書かねばならないと思っていたのだが(このブログでは恥ずべきことも愚かなことも書かねばならないというルールがある)なかなか書く気持ちになれずにいた。今、こうして書いているのはアルバイトの応募を今日やっとしたからだ。周りからすれば「やっとか!」と思うのだろうが、私からすれば「どうにかできた」である。どうにかやっと、心が傷つけられる心構えができたのだった。

面白い話なんざひとつもないが、面白いことや体験はあったので、そのことはまた別の機会に話そう。今は取り急ぎご連絡までに。

2週間の日々

 

仕事を辞めて2週間が経った。これで私も一端のニートである。

といっても、あまりニートとしての実感がなく時々「ニートじゃん」などと言われると強いショックを受けたりしている。出来れば私はニートという言葉でなく「働かずに生きる」という言葉を用いたい。

kotobank.jp

が、しかし、世の人々から見れば私は揺るぎないニートであり、定義からみてもニートである。信念の強い私でも、ここは曲げざるおえない。一端のニートだ。(しかしやはりこのblogではニートではなく「働かず生きる」という言葉を用いたい。好きにさせてくれ)

 

働かずに生きはじめ2週間も経つと、大体日々も規則だったものとなる。

例えば、私は両親と「仕事を辞めたら次のルールを守ること」という約束をしていた。

1:平日は午前中に起き、深夜になる前に就寝すること

2:平日は必要分の昼食を作ること・家事をすること

このルールにくわえ、自分に課している「一日1ゴール」というルールもある。これは、毎日何か一つ目標をたて、それを達成しなければならないとするものである。ゴールは目標達成という意味だ。

例えば「この本を読む」であったり「この手続きを終わらせる」や「このページまで勉強をする」といったことである。些細な事ではあるが、こうした目標がなければ日々は秒で砂と化す。たいしたことではないが、精神的にとてもよいので助かっている。

仕事を辞めて体に変化があるか?といえばYESだ。

辞めてから断然体調を崩しやすくなった。元来、身体が軟弱なので高校の友人などからは「佐々木は痛いところがない」と言われていた。しかし、仕事を始めてからは緊張やプレッシャーから体調を崩すことはめっきり少なくなっていたのだ。それがやはり、なにもなくなったので、露骨に元の軟弱死にぞこない野郎と化した。このたった2週間で二日間も寝込むという失態である。体調もあるが、精神的にまったく動けないという日もあった。これには困っている。

とはいっても時間がたくさんあるので、親しい人と触れ合う時間が増え人間関係がよくなったのは大きい収穫だった。会話が少なくなっていた母ともよく会話をするようになった、友人とは「呼ばれれば行く」の精神がさらに悪化してもはやコンビニぐらいカジュアルな存在となっている。恋人にも心配をかけたり、負担が少なくなったのでさらによい関係となっている。

こうして過ごしているある日ふと、懐かしい気持ちになった。

私は以前にも、似たような時間を過ごしたことがある。

中学生1年生の頃、私は中学生ギャップに陥り、少しの間不登校となった時のことだ。中学生ギャップとは大きな環境の変化についていけなくなるというものである。もともと、環境よりも人間関係の変化に上手く対応できない私は、あっという間に不登校となった。

その時間を私は「黄金の午後」と呼んでいた。まさに言葉の通りだった。

「黄金の午後」の間、私はたくさんの本を読み、水彩画を描いた。毎日最低でも2本は映画を観るのが日課だ。重度の不眠症だったため、深夜に寝て太陽が一番高いときに起きた。毎日が午後と夜で出来ている。当時は気が狂うほど苦悩し、現実逃避し、逃避する自分を許せず泣いて過ごした。愚かな行為、取り返しのつかないことをする自分が許せなかったのだ。でも、どうすることもできなかった。

当時は灰色で真っ暗な日々だったが、振り返ると、あの日々、あの毎日は今の私をつくるに必要不可欠な日々だったと思う。かけがえのない、何物にも代えられないあの日々は、まさに黄金の価値がある。

「黄金の午後」以来、私は人生の休暇があってもいいと思っている。会社や学校から与えられる休暇ではない。自分が自分に与える休暇である。その休暇の間は、すべての責任・シリアスな現実・不安な将来と向き合わなくてもよい。ただただ、自分を豊かにするためだけに過ごす時間だ。その時間は端から見れば愚かで、取り返しのつかない時間のようにも見えるかもしれない。でもお構いなく、自分のためだけに過ごしているのだからそれでいいのだ。私たちはすべからく愚かで、取り返しのつかない時間を過ごす権利がある。そしてそれは確実に、豊かな時間になるはずだ。

いまの私は「黄金の午後」の続きをしている気がする。日々豊かになり、生きる活力が湧いてくる。毎日日光浴をしていると、このまま死んでもいいとすら思える。なんて素敵な日々だろう。

しかし午後はいずれ夜となる。そして夜明け前が一番暗いものだ。この午後が過ぎたら、どうなるかは想像できている。それまではこの午後の続きを、紅茶とビスケットと共に過ごすつもりだ。

会社を辞めたこと言いましたっけ?

2017年が始まり、365日はすでに7%消費された。

残りは93%。私はその7%のあいだ、人生のレールを変えるレバーを力強くひいた。

かっこよく言ってはいるが、結論から言うと

新卒で入った会社を辞めたのだった。

 

会社を辞める

1月15日付で会社を辞めた。あまりにも急な出来事であったため、親しい人もこんなに辞めるのが早いとは思わなかったらしい。それもそのはず、私も思っていなかった。

上司に会社を辞める意思を伝えたのは1月5日、年が明けて最初の出勤日だった。  

朝10時頃、上司に「2月か3月で退職したいと考えています。」と伝えると、上司はさっと顔を上げ「それは考えることがたくさんあるな」とひっきりなしに呟いた。

その日は午後に今後の経営計画を立てる会議が予定されており、主たるテーマは私の業務内容変更についてだった。年が明ける前、私は社長に呼ばれ、業務内容の変更・実家からの引っ越し・給与体系の変更を命じられた。とてもではないが、受け入れられる内容ではなかった。そもそも、入社した際に「絶対にやらせない、させない」といっていたことが全部乗せスペシャルニンニクマシマシヤサイカラメである。頭の中のハードボイルドが煙草に火をつけながら「俺はその話、乗れねぇな。自分がかわいいんでね」と語りかけていた。その話が本格的に始動し始める前に、辞める意思を伝えなければならなかったのだ。

上司は辞める理由について一切聞かず、「辞めるのか、いいな~」といっていかに我が愛しの事業部が悲惨な状況かを話し始めた。そうだ、我々は非常にやばかった。口座状況をみて、一度PCの電源を落とす程度にはやばい状況だったのだ。

30分ほど話すと(もはや世間話だったので記憶にない)上司は社長との面会を準備してくれた。そこから急展開だった。

社長はまず、私が命令を背いたことに対して怒り、辞めることは迷惑だといった。そして、いろいろと言った。がよく覚えていない。強い意思の前にはどんな言葉も意味をなさない。ジョジョばりの確固たる決意を抱いた私だ、ダイヤモンドは砕けないのである。空中で社長の言葉をオラオラしていると、とうとう辞める時期の話になったようだった。私は改めて2月か3月を予定していると伝えた。すると社長はこう言った「勝手に辞めるといってきて、勝手に辞める予定日を決めることは君にはできない。迷惑だ」驚くことに、人生で最も言われたくない言葉であろう「迷惑」という言葉を一日に2回も3回も言われた。私はもはや辞めれるのであればいつでもいいという本音を隠し「勝手を言っているのは承知です。ですので、社長のご判断にお任せいたします。」と建前を述べた。

社長は120秒ほど熟考し、結論を出した。「では今月の15日で退職ということにしよう」本来であれば、社員は辞める2週間前までには退職の意思を伝えなければならない。また、会社側は社員には1か月前に伝えなければならないものである。ごく普通に法律違反である。それでいい。もういい。

私は「ではそれで」と答え、笑顔で握手した。退職まであと10日、出勤日数でいうと7日間。こうして当人も驚きの速さで退職したのであった。

 

会社を辞める理由は

そもそも、私が業務変更に速攻でNOを出したのには理由があった。

11月から未払賃金が発生していたのだ。未払賃金とはあらかじめ労働契約や就業規則で定められた賃金を、所定の支払日に支払われなかったことである。

未払賃金とは | 東京労働局

つまり給与の支給が遅延していた。そのため、遅延している日数は自分の貯金を切り崩して生活をしなければならない。また、1年で2度も給与支給日が変更になったため、やはり自分の貯金を切り崩さなければならなかった。そのような状況が続いていた中、給与が支払われず、頭を下げたこともあった。

 

というのが建前の話

そもそもそもそも、私は会社を1年半で退職しようと決めて入社した無礼者である。

私は夢の職業があり、その職業のために一般企業で社会勉強をしようと考えていた。舐めた考えであるかもしれないが、私は少しの寄り道をしてでも、自分の考えを曲げずに叶えるつもりだった。いまも変わらない。そのためには、勉強になる会社でなければならなかった。そこで気がオカシイ私は絶対向いていない職業、ブラックっぽい企業を探し、入社したのだ。社会勉強は辛ければ辛いほど、後に役立つ。経験からのポリシーだ。そしてその希望通りの会社だった。ただ、この時点では金銭的ブラックは一切求めていない。それとこれとでは都合良く話が別である。

 

辞める決意

 そんなこんなで働き始めた私は10月頃にあることに気がついた。そして大いに泣いた。

たった半年で私は私のアイディンティティの全てを失っていたのだ。

例えば、自己肯定感。意思の強さ、個性、それらが全てごっそりと消えたと感じた。

世の中の人々はどうだろうか?私は私のアイディンティティこそが生きる意味だと信じている。世界中の全ての人間が私に「NO」といっても、私は私に「YES」と言い続けたい。言い続けなければならない。好き好んで辛い道を選んで、愚痴をダラダラっ言っていても、私だけは「YES」と言ってあげたかった。しかし、「NO」としか言えなくなっていた。酷く愚かで、大きな過ちをした許しがたい存在だ。私の良さ、私たらしめるもの全てが失われたと感じ、死にたくなった。

 

 そうしたころ、給与が遅延し始めた。

分岐点に立ち、レバーを握るチャンスがきたのだ。

 

お金のことは?新卒で入社して一年経たず辞める?レールから外れて人生終わり?諦めて心折れた軟弱者?みんなは自分を殺して我慢して働いてるのに?舐めてる?

それでも、いい、って気がする。YESだ。

 

辞めた後

 とまぁ色々理由を書いたが、理由なんて後からいくらでも付けられるものである。成り行きだったのかもしれないし、本当にそれが理由だったのかもしれない。大事なのは行動し、その行動に非常に納得しているということだろう。私は仕事を辞める決意をし、そして辞めた。それだけの話だ。

働かずして生きる、なんの肩書もない私を生きるのは3歳以来、20年ぶりのことだ。毎日8時前に起き、その日にやることをやり、好きな友人や恋人と話をして寝る。食べて、笑って、時々将来を考えては電気ブランを舐める毎日だ。

私はレールを変え、「普通」ではないレールを走り始めた。行先は分からない。残り93%でどうなるか、さらにその先は私次第である。

唯一いえるのは、今の私はYESってことだけだ。